自死遺族の会「アルファの会@東京」(by Hug Hawaii)

Hug Hawaiiが主宰する自死遺族の会「アルファの会@東京」のご案内や活動等のご紹介をしています。

「生きづらさを生き埋めにする社会」の中で

皆さま、ごきげんよう

 

日本はサッカーワールドカップで盛り上がっていますね。私はいまいち疎い(というかほぼ興味がなくて恐縮💦なの)のですが、初戦勝利にわく渋谷の街の映像を見ていて、あぁ日本は平和なんだなーと感じています。 

もう戦争なんかしないで、国家間はスポーツで勝負すればいいのに、とか。オリンピックでは平和に闘えるのに、とかぼんやり思ったりしています。

 

さて、これまでの記事で、日本ではまだまだ事実を話すことのできない自死遺族が多いであろうこと、なぜなら未だ自死自死遺族に対する偏見や誤解、社会的烙印を押されてしまうことが多いであろうことを述べてきました。

 

日本では自殺対策の法令が施行されて、自死遺族支援の充実が謳われていますが、実際に自死遺族の置かれている環境や状況が変わってきたのか?といえば、必ずしもそうとはいえないでしょう。

いまだ、自死遺族が肩身の狭い思いをしたり、息詰まるような生きづらさを感じざるを得ないのが現状ではないでしょうか。

一番傷つき、深い悲嘆に暮れて成す術もないであろう自死遺族が、なぜこんなに生きづらさを感じなければならないのでしょうか。

 

残念ながら、今のところ日本はそんな社会であることが事実なのですよね。(これは日本社会に特有のことであるような印象がありますが、海外の文献を読んでみると、国際的な問題だといえそうです。) 

 

そのことについて、水津・佐藤(2015)*は、「生きづらさを生き埋めにする社会」であると表現しています。

*水津嘉克, 佐藤恵. (2015). 生きづらさを生き埋めにする社会 -犯罪被害者遺族・自死遺族を事例として-. 社会学評論, 66(4), 534-551.

www.jstage.jst.go.jp

詳細は割愛しますので、ご興味のある方は↑文献をお読みになってみてくださいね。 

 

確かに悲しさ、辛さ、苦しさを表出できない、話したいけど話せない、話してみたいけど相手がどんな反応をするか怖い、相手を困らせたくない、沈黙されるのが怖い、話してみたけど心無い言葉や態度で傷ついた、もう二度と傷つきたくない、等など自死遺族が事実を話すことには様々な葛藤や怖さが伴います。 

特に、相手の心無い言葉や態度で更に傷つくこと(二次被害)を経験すると、もう二度と話をしたくなくなってしまいますし、殊更に警戒してしまいますよね。

なぜ一番悲しいはずの自死遺族がさらに傷つけられてしまうのか、本当にやるせない思いです。

つまり、自死遺族の二次被害を防いでいくことはとても重要な課題だと思います。

 

ただし、敢えて話さないことによって、自分を守ること、すなわち自己防衛になることもあります。

したがって、なんでもかんでも話せばいい ということでもありませんよね。

 

しかしながら、話したいのに話せない、吐き出したいのに吐き出せない、誰にも何も言えないことが苦しいというような状況は、できれば解消していきたいというのが私の考えです。

つまり、「沈黙を選択せざるを得ないという生きづらさ」(水津・佐藤、2015)をどのように解消していけばいいかを考えています。

 

そこで、自死遺族が安心して自由な話ができる安全な場としての「アルファの会@東京」という場と機会を設けています。

くわえて、私はいま大学院で家族の死因が自死であることや、自死遺族であることを他者に開示するか否かの行動の分岐によって、その後の悲嘆を乗り越えるプロセスや、社会や周囲の人たちとの関係性再構築のプロセスに違いがでるのではないか、というような研究を行っています。

 

したがいまして、自死遺族にとっての「生きづらさを生き埋めにする社会」については非常に関心があり、今後も考え続けていきたいと思っています。 

そして、少しでも自死遺族の生きづらさが解消されるように、今後の日本社会のあり方を考えてみたい次第です。 

 

ちなみに私は、最近自分が自死遺族であることを他者に普通に話してみています。

別にわざわざ主張して周るわけではありませんが、他者との会話の自然な文脈の中で、フワッと普通に愛する家族が自死したこと、私が自死遺族であることを話してみています。

 

勿論相手が困惑するだろうなーとか、変な空気になるようなことも想定しています。

それでも、たとえば「病気で家族が亡くなってしまったの」と同じようなトーンで話しを続けてみています。実際自死は病死の一つだと私は思っていますし。

 

すると、皆さん始めは案の定戸惑っている様子なのですが、意外なことにその後自死した私の家族についての質問をしてきてくださったり、自死自死遺族に対する考え方を聞かせてくださったり、ご自身の自死にまつわる体験を話してくださったりします。

予想に反して?今のところ変な空気になったり、心無い言葉や態度で傷つけられることもありません。皆さん、率直に真摯に向き合って会話をしてくださっているという印象です。

意外といえば意外ですね。

たまたま私が話をした相手が良い人だったからなのでしょうか? 

 

そこで、もう一度「生きづらさを生き埋めにする」ような日本社会のことを考えてみます。

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確かに文献で指摘されている通り、以前と比べて自死遺族が事実を語ることが許されるような空気になってきました。つまり、一見物わかりの良い寛容な社会になってきているように見えます。

しかし、そこには無言の拒絶というか、実際には語ることが許されないというような、暗黙の了解や空気感が見え隠れする社会なのかもしれません。

むしろ逆に妙な生きづらさが増しているような気もします。ちょっと怖い。

当然、世の中には心無い言葉や態度で自死遺族をさらに傷つける人もいることでしょう。勇気を振り絞って話しても、沈黙されたり、変な空気になったりすることもあるでしょう。

 

しかし、決して全員がそうではないし、その人なりに理解しようと努め、真摯に向き合って話をしてくれる人もいるのだ、ということを忘れたくないと私は思います。

つまり、「生きづらさを生き埋めにする」という傾向が強い社会ではあるけれど、それが全てではなさそうだし、意外と捨てたものでもないのかな、とか。

いつかそんな社会をほんのちょっとでも変えることができるのではないかという希望も持っています。 

そして、個人的にはこれからも普通にフワッと話してみることを止めないでみようと思っています。 

 

 

その中でいま私が感じていることの一つは、どんな文脈や空気であっても、お互いに話すことを止めないことが大切ではないかな、ということです。

いわゆる「対話」を続けるとでもいいましょうか。

 

どちらかが話すことを止めてしまえば、そこでコミュニケーションも関係性も断絶されてしまうことでしょう。恐らくお互いを理解しようとするような努力も途絶えてしまう可能性も高いのではないでしょうか。

自死遺族が非当事者には「どうせ分かってもらえない」「分かるはずがない」という思いを抱くこともよく分かります。しかしながら、はじめから可能性を閉ざしてしまうのも、なんだか勿体ない気がするのですよね。

 

そこで、不器用ながらにでもお互いが向き合って、真摯に率直に話し続けることを止めない努力をしていくことで、どんな文脈や関係性であれ、少なくとも生きづらさが「生き埋め」にされてしまうことが少しずつ解消されていく見込みはあるのではないでしょうか。

話しづらいことを話し続けるということは、きっとお互いに努力や勇気が必要でしょう。

時に不穏になってしまったり拒絶されたりすることもあるでしょう。

それでも、全ての人がそうではないかもしれないよ、という希望は持ち続けていたいものです。

相手を信頼するということが出来れば、生きづらさが「生き埋め」にされるようなことも解消されていくのかもしれませんね。

 

そこで、私は自死自死遺族について普通にフワッと話をしてみること、真実を伝え続けていくこと、その上で社会や周囲の人たちと繋がり続けていくことを諦めないでいたいと思います。 

その結果どうなったかについては、また追って書いてみますね。

嗚呼、なんだか長文になってしまいました💦今日はこの辺で。

 

ありがとうございます。

千草